4月 28
admin気づき
今日は大きな反省がありました。
自分の人生を振り返り、いつも同じパターンを繰り返していた事を、今日は痛感させられました。
そしてこの考えのクセ、思いかたのクセ、行動のクセが、ひとつの原因だった事を明確に自覚をする事が出来ました。
僕は無難に、器用に80%程度の合格点を取るのが得意で、
お金や時間からわりと自由になり、いわゆる世の中的な成功者、うらやましい対象になった事もあります。
ただ自分自身お金や時間から自由になって海外旅行をしたり、好きな事をしたりしているうちに、
だんだんと空しさが溢れてきて、もっと深くより大きなスケールで世の中の役に立ちたい、そう思うようになっていました。
しかしながら、本当に根深い部分では、自分の変化が足りておらず、
目標やビジョンとしては大きなものを掲げても、どこかで、「100%それを実現させるんだ!」という決意や責任感がなく、
それゆえに、全ての行動やコミュニケーションが中途半端になっている事を痛感しました。
今日の反省をしっかりと深めて、「失敗」から沢山の事を学び、「変化」を生み出していく決断をしました。
失敗という現象から失敗した原因の本質をしっかりと把握し、同じ失敗を起こす自分から、失敗を繰り返さない自分のあり方への変化のプロセスを描く。
そしてそのプロセスを確実に実践し、継続する。
「気分」や「フリ」や「淡い期待」で行動したり、人に語りかけたりするのではなく、
「本気で」「100%」で、今ここを取り組むように、自分のあり方をイノベーションしていきます。
4月 23
admin気づき
ある出来事が起きた。
その出来事をどのように受け止めるのか?
その受け止め方によって、その出来事を学びへと昇華する事が出来る一方で、
単なる不平不満を蓄積するだけの結果にもなってしまう事を、日々痛感しています。
その差は本当に紙一重であり、その人自身の受け止め方のパターンが、
しっかりとフィードバックを有効に活用できる「あり方」になっていることが必要不可欠です。
例えば、
「今日突然、リストラを通達された」
この出来事に対して、どのように受け止めるパターンがあるでしょうか?
「なんてひどい会社だ!」
「自分は本当にかわいそうな被害者だ」
「仕事をサボっていた自分のせいだ」
「本当に日本は不景気なんだな」
「こんなことなら、もっと早く転職をすべきだった!」
このようにくつもの受け止め方、考え方、感じ方のパターンがあります。
このような受け止め方をパターン化すると大きく三つに大別できます。
①自己否定(自分の能力や行動を否定する)
②他人否定(組織や、同僚、友人などのせいにして、否定する。自分は被害者)
③環境否定(国や時代など、自分が置かれている環境要因のせいにして、否定する。自分は被害者)
しかしこのような①自己否定、②他人否定、③環境否定のどれかに当てはまるような出来事の受け止め方をしてしまうと、
発展的な学びを展開する事が困難です。
「今日突然、リストラを通達された」
この出来事に対して、
なぜ、この出来事が起きたのか?
その出来事が起きた原因は何なのか?
自分のあり方に、どんな要因があって、その結果を引き起こしたのか?
そのように自己の内面を掘り下げて問題を追及していき、
自分の考え方、感じ方、行動、習慣の何を改善していくべきなのか?
現象に対して何かのせいにして、否定をするのではなく、
その問題が生じた原因を徹底的に掘り下げていき、
自分の何を変化させていく事でその問題を解決できるのか?
その解決策の100%を自分の内面、心のありように求めていく。
それが同じ現象、同じ失敗を繰り返さない、発展的かつ、今ここで一人だけでできる、
「フィードバックシステム」だと実感しています。
この「フィードバックシステム」を自分の中に確立できているか否か、
それによって、その人の人生の結果は大きな違いを生むのだと思います。
4月 15
admin気づき
先日初参加をした横山先生の哲学カフェで、先生がおっしゃった「知と智」と言う言葉がとても心に響きました。
「知」と「智」の違いを辞書で調べても、その真意は伝わってこないと思います。
ち 【知/▼智】
* (1)物の道理を知り、正しい判断を下す能力。儒教における五常の一。
* (2)〔哲〕
(ア)「知識(5)」に同じ。
(イ)知識を獲得するはたらき。
* (3)〔仏〕〔梵 jna〕慧(え)の一。真理に従って判断し、煩悩(ぼんのう)を打ち消す精神のはたらき。《智》
「知」は「知識」に同じとありますから、
「知識」を調べてみると、
* (1)ある物事について知っていることがら。
o 「そのことについては何の—もない」
o 「茶器についての—が豊富だ」
o 「予備—」
* (2)ある事について理解すること。認識すること。
*
o 「幸福とは何かと云ふ事を明細に—して了つてゐるんです/竹沢先生と云ふ人(善郎)」
とあります。
つまり、「知」とはその物事を、単純に「知っている」「見たことがある」「聞いた事がある」レベルと言う事だと思います。
これは例えばインターネットで調べて知っている、
本で読んで知っている。
友達に聞いたから知っているという、
事実や事象について記憶をしている、または記憶した事があるレベルです。
対して、「智」は、より能動的に、ただ「それを知っている」と言うレベルを超えて、
応用できるレベル、活用できるレベルまでその人の血肉となって消化(昇華)されている「智恵」のレベルなのだと思います。
「知恵・智慧」
* (1)〔仏〕 空など仏教の真理に即して、正しく物事を認識し判断する能力。これによって執着や愛憎などの煩悩(ぼんのう)を消滅させることができる。六波羅蜜の一つ。般若(はんにや)。《智慧》
* (2)事の道理や筋道をわきまえ、正しく判断する心のはたらき。事に当たって適切に判断し、処置する能力。
*
o 「—が付く」
o 「よい—が浮かばない」
o 「—をはたらかせる」
o 「—を貸してくれ」
* (3)〔哲〕 単なる学問的知識や頭の良さではなく、人生経験や人格の完成を俟(ま)って初めて得られる、人生の目的・物事の根本の相にかかわる深い知識。叡智(えいち)。ソフィア。
現代は、インターネットの普及によって、誰もがパソコンひとつ、携帯電話ひとつで膨大な知識に無料で、瞬時にアクセスし、「知っている」状態を実現する事ができます。
つまり、「知っている」と言う状態は、インターネット普及以前とは異なり、
完全に一般化された、何も差別性、優位性を生まないものとなってきており、その価値は低下する一方です。
そのために、現代の暗記中心の学校教育に対しても、懐疑的な動きが強まり、
当の学ぶ生徒の側も、暗記する事への必要性、価値を感じられず、学びへのモチベーションが低下しているのが実情だと思います。
「なぜ検索したらすぐに入手できる知識を自分の頭に記憶しないといけないのだろう?」それが本音なのではないでしょうか。
これからは、単純に「知る教育」ではなく、知識を深めて智慧を獲得する、「智る教育」が必要なのだと思います。
そして、「智りたい」という知的好奇心、人間としての本能こそが、物が溢れた先進国の潜在的なニーズなのではないでしょうか?
それが人間と動物の大きな違いです。
Older Entries